昭和50年2月2日朝の御理解
入力者 大坪謙一
ご神訓・・・一、「神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと」
御理解第四十二節「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば信心はもう止まっておる。これは、まだ信心が足らんのじゃと思い一心に信心して行けばそこからおかげが受けられる」とあります。んー、御道の信心の体得ということは、えー「神がわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと」というようなことが分かり、親に孝行するうような思いでの信心ができるようになることだと思います。これが、御道の信心の、まぁいうならば、金光様のご信心とはと、ね、こういう信心だと、神様と私どもとも関わりやいというものがです。
ね、切っても切れることのできない密接な関係をもっておものであり、その親神さまと私どもとの間に、ね、いろいろと情感ともうしましょうか、ね、心が通い交流するところからおかげが交流し、また神情、神様の思いが分からせてもらい、いよいよもって神恩報謝の熱い心も生まれてきて本当の信心生活ができるようになるというのです。ね、ですからそういう信心を分かっただけではなくて、体得させて頂くためにこの四十二節のところを一つ強く分からせて頂かなければならない。なかなか一遍に一速飛びにそういうふうにおかげが頂けるとか分かるとも思われません。
その四十二節のところでです。いうならばこういう信心ができるところから本当なものに触れていくことができるのです・・・。えー昨日のお月並祭に新しいお神様のお社があそこにおまつりがしておられます。それから、御霊さまの前にも新しい零者がありまして、昨日御祈念を頂いたわけであります。これは、えー(?)さんという方のところの今日新築(?)がありますので、ね、日頃頂いておる、おかげ、神様を始めて奉祭されお祭りができることになる。段々分かれば分かるほどこれは霊肉共の助かりでなからなければならない思いが、もう切に感じられるようになられて、いわば今日合わせて開式の御祭りをでなさるという、まだ合楽にご縁を頂いて半年になる。それこそ皆さんもう羨ましい限りじゃないでしょうか。
何十年信心しておっても、思うてはおってもいろいろなさしさわりがあって開式も出てない、神様はありがたいことを分かっておるのだけれども、まぁ踏ん切りがつかないという人も沢山あります。けれどもまだ半年です。半年(?)あのー、秋山さんの車にある月並祭の挽に追突をなさいました。それがご縁なんです。どうですか、本当に例えばそういう事故があった時なんかはそれこそ「お前が悪い、いやぁあんたが悪い。えーお金は出すの出さないの」といったような争いにもなりかねないところです。(笑)そういう不思議な、まぁ逆現のような面からです。おかげを頂いて金光さまの信心のありがたいことが分からせてもらい秋山さんのお導きでお参りをされるようになり、もうそれこそ本当にそこに、久留米警察所に( ? )警察官をなさっておられる方なんだそうです。
もう、本当になんていうですかね、なんかおかげを頂くタイプちゃあぁいう人だと思うような感じです。今日もおそらく一家中でお迎えするためにお参りをするというておられましたからお参りになっておられる思うです。もう本当に次々とおかげを、いうなら難問題も解決のおかげを頂いて、今度( ? )できそうになかったんです。それがもう不思議な不思議なお繰り合わせを頂いておかげを頂いて、今日そちらへ行けるというところまでの(?)ならせて頂いた。まぁそのーなんていうですかね、美しいですなさることが。うん、そして素直です。
ね、あの特にあの警察官なんかっていうのは、こうこう威張ったような感じの人がいるのですけれどもね、もう本当にある意味じゃ素晴らしいです。人間的に。ね、例えば、あーちょうどこの寒修行のことなんかは、まだ知られないわけです。その始まるころでしたでしょうか、いよいよ寒修行を始めます。ですからあのー、「どういうようなことからお参りでもなさらないけませんよ」と言ったらそれからずっとやっぱお参りになるんです。
この十二月の報徳祭にたまたま、あー、壮年部で玉櫛を上げられました。その時の感激なんかは、私は今にもその時のお礼に参拝され、改めて御礼参拝された時のことを思いだします。
玉櫛をおかげを頂いたということに対してですね、ああいう、あれだけの感動が持てれるということです。今日は、それこそ願いに願っておられた神様を新たな新築の家にお向かいし、奉祭させてもらえる。しかもご先祖の御霊様がお喜び下さることであろう、いうなら開式のおかげを頂いて、霊肉ともにこれから金光教の信心によって助かろうというのです。●私はそのことを今朝から神様にお礼を申させて頂いておりましたら、あの、イナリ寿司とね、それからあの浅草のりで巻いた巻き寿司とうを頂きました。そして今日の御理解を頂いておるわけでございますけれども、頂かせて頂きましたら「神が我本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞ」というような信心がです。
また四十二節のようなところを辿らせてもらい、通らせてもらい、しかも素直にそこを乗り越えていって始めてそういう御道の信心の尊いをいうことが分かってくるのです。これほど信心するのにこういうことがあった。「はぁーお参りしよったばってん信じられんなことだけんで俺りゃもうやめた」とこういうようなね、人も沢山あるんです。ね、「他の者にニコニコしながら、ほんなら先生がボーっとしとったけんもう俺は参らん」っち。
もう今後参らんような時にどうするじゃろうか、ところが私がボーっとしとったっち。
(笑い)そりゃ人間じゃけんボーっとしたことつもらりゃ、ニコニコしとるこつもあるくさいね。
けれども、本当いうたら、ね、いくら御結界来て「親先生、親先生」というても、そっちを向きもしなさらんごたる時ほど実をいうたら大事な時なんです。(ふうとく悪ういわれたが?)という時ほど信心を大事にしなければならない時なんです。本当は。先生がいつもにこやかにしておられるような信心じゃつまらんです。ね、そういう意味でです。私は、ね、私はいなり寿司ということをです。まぁおいなりさんということをね、非常にこの、霊徳著しい神様だと昔から敬称があります。ね、ですから、あーいうならば(?)。いうならおかげから入られたということだろうと思います。ね。
いわば、合楽の霊徳に触れられたと思うのです。そして、信心が段々分からせて頂くうちにです。ね、いわば神様を法際させて頂く、または、開式までもおかげを頂こうというように心が涼んでいきました。いわば、半年あまりの信心が、御道の信心の体得ができるとも思われません。思われませんけれどもこのからの信心が、いうなら形の上には見事にでけたのですから、何十年信心しておってもお互いが願っておってでけない事柄です。半年あまりの信心で、しかもスムーズにね、長さ反対もなしにでけたということはありがたいのですけれど、いうならそれは形がでけたということなのであります。
ただおかげを頂いて形がでけたというのです。ね、ですからこれから( ? )の信心がです。いうならば、あの、まき寿司の信心におなりにならなければならないのだと、そこから、本当の信心の内容ということが、いよいよ分かってこられるのじゃないかと。まぁこれからの信心過程においてです。雨もありゃ、嵐もありましょう。そういう時にです。ね、そこをありがたく受けていけれる信心。そこをいよいよ、より本当なことを分からせて頂こうと精進する信心。「いやぁ、こりゃまぁだ自分の信心が足りんのだ」と一段と信心を進めて行こうとする姿勢をいよいよ作らせて頂いて、ね、そこからおかげが受けられるというね、そこからのおかげをこれから目指しておい出てなければならんというふうに
思うのです。
信心の一番大切なところ。ね、昨日、あのーお月並祭にも聞いて頂きましたように、私どもが本当と思うておることが、ね、より本当もあることが分からせてもらう。それを、私は例をもってお話しました。ね、例えばお金を貯めるというてもです。始末倹約をする。一生懸命働く。ね、それならばまず貯まるでしょう。ね、これはどこまでも人力を持ってもいうなら貯まっていくわけなんです。私どもはね、限りないおかげ、神力をもってのおかげ。限りないおかげにつながるおかげ。そういうおかげを頂かせて頂くために、そういうそれが本当なんです。ね、一生懸命始末せにゃ。一生懸命がんばらにゃ。ね、人が五時間働くところ六時間働かにゃ。
そして、貯め上げていくということも本当なんですけれども、本当に貯め上げていくということはです。ね、もっと本当のことがあるということを、例えば盥(たらい)の水に例えてお話を致しました。ね、例えばそういう、今申します本当のことは、手前の方へ引いて引いて、ね、それこそ常に灯火つけるような思いで貯め上げていく生き方です。わずかしか引いても来ません。けれども反対に向こうに押す生き方。ね、最近頂きます。「天地への還元」ということを申しますね。人が喜ぶことために、神様が喜んで頂くことのためにと自分の心の向きが変えられて、それこそ自分が為をぬったのではなくてです。
ね、神様のお心に叶う生き方を持ってする時、向こうにおすときに、水がかえって沢山の水がこちらの方へ手前の方へかえってくるようなおかげを頂くということが本当のまた本当なのであります。ね、そういう信心を私は身につけて、いっぺんにでけようとは思われません。ね、日々の生活の中からです。ね、そういうより本当なことを体得させて頂いておかげをこうむっていかなければなりません。いよいよ、えー寒中修行も今日で一応終わることになります。本当に日を追うにしたがって参拝も増えてまいりました。本当に合楽ならではのというほどしの(?)もでけました。本当いい修行がでけました。
けれども一人ひとりの(?)ことを思うてみる時にです。ね、これでよいとは思われないところが沢山あったのではなかろうか。あるかたが親先生の三時半の天地を礼拝される時にその時間にお参りをさせてもろうて親先生と共に天地を拝ませてもらう今年の寒修行はそこから始めようと思うた人がありました。ね、四時の御祈念に親先生がでられるから、それにも合わせて頂こう思うた人もありますた。ね、いつも朝の御祈念にお参りしておるけれども、いつも遅れるから今度の寒修行だけは、遅れるようなことがあってはならんという風に始められた方もありまた。
日頃は朝参りもでけませんけれども、ね、せめて寒修行の期間だけぐらいはと言う人もありました。ね、せめて三日にいっぺん、十日にいっぺん。ね、普通はとてもこんなに遠いいところにおるから朝参りなんか思いもでけなかったけれどもせめて一回でも二回でも寒修行にあわせて頂こうというようにです。それに勤められた方もありました。ね、ですからそれは信心のその人その人の過程なのですから、段階なのですから、どうでなからなければならんということはないのですけれども、この寒修行に懸けられた、ね、例えばそれぞれの修行がです。ね、「はぁ不完全なことであった、あいすまんことであった」では、こんなにもいうならば、私は夕べ申しましたように、この寒中修行にこんなにもおかげの受けられる姿勢を私は皆さんに作って頂きたいということにかけたんです。
ね、ですから、あのー昨日も申しましたように、ね、寒修行は終わった。けれども足りなかったところをです。もう磨きにつきにかけようというような生き方をです。いうならばどうでも皆さんのおかげの受けものにさせて頂くことのためにです。私はそういう私の言い方、私のいうなら(?)です。これは、皆さんにね、いうならばチャンスを与えて頂いているのだと思います。よく申しますね、出来なかった、ならもういっぺん君にチャンスを与える。というようなことを申しましょう。いうならば神様はチャンスを与えておって下さるのです。ね、ですから、そのチャンスをハークしてね、より間違いのないしっかりとしたおかげの受け物をひとつ作らせて頂かなければならないというようなことをこの寒修行終わってそのことを感じます。
今日は、えー幾人の方かの体験発表があるそうです。あと茶粥食がございます。皆さん、どうぞそれぞれでおかげを頂かれますように今日は私が皆さんに聞いて頂きました御神訓、また四十二節のこの御理解。ね、いよいよぎりぎり「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事」というのが自分の血や肉になった時にもうその人の信心は動かない。ね、もう間違いないということになるのです。ただそういう間違いはない信心はです。頂かせて頂くためには四十二節にあります「これほど信心するのに」といったようなことをいよいよ大事にされて、ね、いよいよより本当な信心を身につけて頂きたいと思うのでございます。どうぞよろしくお願いします。